元禄3年(西暦1690年江戸時代、徳川綱吉の時代です)奥州相馬領大堀村(現在は浪江町大堀です)の在郷給人(または郷士と呼ばれ、農村部に住んだ武士や特権階級の農家や商人に与えられた身分)半谷仁左衛門(休閑)の下僕「左馬」が陶器作りを志し、相馬中村城下にて相馬藩窯(田代窯)の陶工としてその技法の習得を目指しました。
後に郷里大堀に帰り、隣村の井手村美森に陶土を発見し、茶碗の焼成に成功、近在に売り出したと言う事です。
その時に主人である休閑に陶芸の技法を伝習しました。

その当時大堀は土が農作業に向かず、山畑を開墾して煙草作りなどによって生計を立てている現状を見て、この陶器製作を村の一大事業にしようと、村内の親戚や在郷給人にこの技法を伝授しました。
そのため、大堀相馬焼は半谷休閑を陶祖(陶芸を創めた人)としました。

相馬藩も藩の産業として、また在郷給人の俸禄を補うためやきものへ従事することを許可し、保護政策をとったため大堀相馬焼は文字通り大堀村の大業となりました。

初めは大堀村の独占であった陶器産業も、隣の井手、小野田、小丸村でも生産されるようになり、特に1783~1787年の天明の飢饉以後、半農半陶でやきものに従事する人が急増します。
そして、次第に相馬焼は隣町まで広がり、江戸末期には120戸の窯元を擁し小さい村から江戸や仙台など大きな都市までを市場とする、東北一の大窯業地帯となりました。

この頃の半谷休閑の文書によると、江戸万年町の橋本清右衛門の蔵に瀬戸千俵を荷揚げした記録が残っております。
昔は瀬戸物を米俵のようにワラで荷造りし、それを担いで行商していたということですから非常に大変だったことが伺えます。
重さはどの位あったかはわかりませんが、そうとうな重量だった事でしょう。
また明治初期頃からは海外にも輸出して好評を博しました。

大堀相馬焼の隆盛はいわき地方や茨城県などにも刺激を与え、栃木県の益子焼でも古い陶器は相馬焼にそっくりなものが多く見られます。

そのように栄えた相馬焼ですが、明治4年(1871)廃藩置県(明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県にした行政改革)のため藩の援助も無くなり、廃業者が続出。
また交通の便もよくなり、都会に出て行く人や外の仕事に着く人が多くなりその後の太平洋戦争時代にはさらに瀬戸物屋は少なくなりました。

しかし、戦後はまた復興して1978年には国の伝統的工芸品の指定を受け、震災前は23軒の窯元が生産しておりましたが、原発事故後一時生産が中断。

現在は約半数の窯元が生産を再開。
伝統を絶やさぬよう、また皆様に親しまれる製品作りに努力しています。

1690年大堀相馬焼の誕生
1830年駒絵が描かれる
1853年益子焼が起こり、陶工が笠間・増子に製法を伝授する
1863年青ひび(青磁)釉薬が使用され始める
1867年明治維新の頃に、二重焼が考案される
1950年アメリカ輸出が始まり、ワインクーラーやパンチボウル等の
大きな湯呑の製造が盛んになる。
1978年通産省(現在 経済産業省)の伝統的工芸品の指定を受ける